富士製作所/スターでは,富田潤二さんがながらく技師長格であったと思われます.富田氏は,大井脩三の”ラジオ技術講習所”(東京・神田三崎町)で学びました.技術といい教養といい,富田さんを春日さんと比較するのは酷でしょう.その技術陣を使って成功したところに佐藤俊氏の腕がある,とも言えるでしょう.
スターの中間周波トランスはC同調,トリオの方はμ同調でした.このあたりにも,両社の技術力・先見性のちがいが見て取れます。
田山彰さんが短期間ながらスターの技術部長でした(1960年入社).氏はワンマン社長佐藤俊の部下ですから,春日二郎さんのように自由に腕を振るうことはできなかったでしょう.佐藤さんは技術の詳しいことはオーディオ関係の友人に電話をかけて相談していた,とのことです.
田山さんについて追加:氏には,”回想 日本のラジオ・セット(I)(II)(III)”と題して,山中無線電機時代ほか詳しく書いていただきました(『電気学会研究会資料』,HEE-00-15, HEE-01-12, HEE-01-24,2000年,2001年).どれも大変参考になる資料と思いますが,電気学会自体に保存されているかどうか? その(I)では戦前の各種ラジオ部品についての記述があります.田山さんは中央無線で,軍放出のリッツ線を使って中間周波トランスを作り,性能を向上させました.
戦後の富士製作所の躍進はまことにサクセス・ストーリーで,佐藤俊氏のリーダーシップの賜物であったと言えるでしょう.1961年に東京証券取引所第二部が開設され,富士製作所もこれに上場を果たし,社名をスターに改めました.オーディオに乗り出そうと池田圭や永田秀一と関係を持ったようすが,『ラジオの歴史』,100-101頁の図55(写真)に見られます.佐藤俊の絶頂期です.”第二のソニー”とも呼ばれたました.
佐藤俊さんについて,もう少し.戦後,東京にラジオ関係メーカーの共同組合が設立され,佐藤氏が組合長を務めていました.熱海で組合の納会か新年会があり,宴席で佐藤氏がスピーチしている時に小林稔さん(ペーパーコンデンサー等のメーカー小林電機製作所/チェリーの社長)らが別室で麻雀を始めたのだそうです.そこへ佐藤氏が乗り込んで,“オレの話が聞けないのか”と怒って雀卓をひっくり返した.これを根に持った小林氏がのちに組合長になり,そのときスターが左前になり,組合からつなぎの融資があれば生き延びるというところを小林氏が許さず,スターが倒産した,という話です.以上のように聞いた記憶ですが,あるいは佐藤氏と小林氏と立場が逆であったかもしれません.両氏とも,日本生産性本部派遣・米国招待で日本電子工業訪米視察団(1957年.団長はパイオニア松本望社長)のメンバーでしたから,業界で”顔”でした.
テレビキットへの課税問題で電気商が窮地におちいり,青森あたりから上京した店主たちがスター社へ詰めかけたとき,佐藤俊氏は一室へ隠れて出てこなかったと言います.飛ぶ鳥を落とす勢いであった氏も小心者であったというエピソードですが,こんなことは普通で自然だと小生は思います.
トリオとテレビキット:春日無線もテレビキット製造に乗り出し,宣伝まで開始しましたが,発売寸前に撤退しました.テレビキットの流行に乗ろうとしたのを断念したのは,英断であったと言えるでしょう.
ラジオ受信機の高周波部品規格統一(コイル,バリコン,ダイヤルなど.1952年)に際して,部品メーカーのグループが作った規格が原型になりました.富士製作所のスターライン,吉永電機(バリコンのメーカー)・トリオほかのCLD協会,関西のCVD協会(福島電機/コスモスほか)といったグループです.これもスターとトリオの重要な功績です.
『ラジオの歴史』刊行について:はじめ,老舗ラジオ雑誌の編集長に貴社から出版してもらえないかと頼んだのですが,”高橋さんの書くものはちっともおもしろくないから”と断られました.のち友人の紹介で法政大学出版局から刊行することができ,大変ラッキーであったと思います.
なるべく正確に,と書いているうちについつい長くなりました.お詫びします.