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2023/12/07 (Thu) 17:49:19

『ラジオの歴史』こぼればなし⑤  投稿者高橋雄造

 今回は浜地常康です.彼の『ラヂオ』は日本で最初のラジオ雑誌であり,
ハマチヴァルヴは最初の国産真空管といってもよいような存在です.電波知
識の啓蒙雑誌ではなく,ラジオ自作ファンのための雑誌を始めたのは浜地で
す.
 過去の歴史を調べるについては,すでに知っている知識の断片から入るこ
とになります.このような知識のない事項についての研究は粗くなりがちで
あり,心して取り組まなければなりません.ラジオ・雑誌で言えば,『無線と
実験』は現存しているので,そこからたどって行けばよい.伊藤賢治の名前
と赤門ラヂオぐらいは聞いたことがある.苫米地貢となると,相当に困難で
す.浜地はもう,かすかに聞いたか聞かなかった存在でした.
 浜地家は,福岡・黒田藩の杖術指南役でした.常康の父君・八郎は黒田家
の顧問弁護士で,常康の弟が杖術を嗣ぎました.大船の浜地家を訪ねた小生
は,その神道夢想流杖術師範の浜地金剛という方にも会いました.杖術とは
刺股を使うアレです.捕物術ですから,剣術よりも低く見られることがあっ
たかもしれない――しかし,師範氏によると”剣術は人殺し,杖術は人を生か
す術”(殺さずに捕える)です.浜地八郎は玄洋社の社員で,娘二人は頭山満
の長男・次男の嫁です.そう語る師範さん自身も玄洋社社員であるような口
ぶりでした.小生は学生運動世代で,“玄洋社とはイケナイ右翼団体だ”と思
っていましたので,少々驚きました.玄洋社は米占領軍に禁止されてなくな
ったはずですが,任意団体として続いていたのかもしれません.大船の観音
は,浜地八郎らが主唱して護国観音として築造開始されたものだそうです.
“カルピス”(飲料)の名称は浜地常康のアイデアである――どれも浜地家で
聞いた話です.彼は,獨協中学で学び,ラジオの知識は独学で得たそうです.
張作霖の求めで,浜地製の無線電話機を奉天と北京に取り付けました.常康
は,音楽も得意でした.電子楽器も製作しました.彼はバラライカを弾いた
とか.日本で最初のバラライカ奏者かもしれません.正統右翼の息子さんが
ルパーシカを着てバラライカを弾いて悪いわけではありませんが(両方とも
ロシアのもの),なんだか不思議な気がしました.
 関東大震災前年の1922年に『ラヂオ』を創刊し(11月号で創刊.日本に
おけるラジオ放送開始の3年前!『無線と実験』創刊は1924年),蛙のマー
クのハマチヴァルヴを作った浜地は,日本のラジオ産業の創始者といってよ
い.しかし,その功績は意図的に消し去られたような気配があります.『無線
と実験』グループあたりによるものか? しかし浜地家では,常康が不運で挫
折したなどとは思っておらず,才能があり好きなことをやったが若死にした
可愛い息子,ということのようです.暗さ,悔恨など感じられない.
 浜地常康はリッチな家に生まれ,後援者には逓信大臣もいました.望むこ
とをやった,望むことを実行でき,幸せでした.苫米地,伊藤,小川らはそ
れぞれこんな恵まれた境遇にあったでしょうか.おそらくノーです.違いは
もともとこのあたりにあった,と小生は思います.” 浜地はラジオがビジネ
スとして十分に成立する前の人に過ぎない”と言ってしまえばそれも当たっ
ているでしょう.しかし,先鞭をつけたのは浜地常康です.

 関東大震災(1923年9月)をはさんでの『ラヂオ』と『無線と実験』の
発刊の流れは,次のようであったと思われます.まず,震災前に浜地が『ラ
ヂオ』を創刊し,11号まで刊行しました.苫米地は(古沢や佐藤祐次郎も),
『ラヂオ』および東京発明研究所に参加しました.震災で同誌刊行が中断し,
その復刊に先手を打って『無線と実験』が発刊されました(創刊号は1924
年5月.東京放送局の放送開始は1925年3月).『ラヂオ』を見て伊藤がラ
ジオ雑誌は”イケる”と読み,『無線と実験』を出したのでしょう.その結果,
『ラヂオ』は復刊されなかった.苫米地一統は,『ラヂオ』から『無線と実験』
へ引っ越した.そして,『無線と実験』グループは浜地に対する”背信”の痕跡
を消そうとしたようです.苫米地が浜地と訣別した本当の理由はわかりませ
ん(全くの想像ですが,浜地が大病で伏していたとか).浜地家としては『無
線と実験』グループとの泥試合をする気はなかった(プライドが許さなかっ
たか)のでしょう.伊藤は『無線と実験』を刊行したものの,その販売は手
に余り,商業雑誌を業とする小川が同誌をいただいた,ということでしょう.
小川は商売人で,早くから(『ラヂオ』の頃からか)ラジオ雑誌刊行をねらっ
ていたようです.『無線と実験』は古沢の編集で誌面が充実し,商業雑誌とし
ても成功しました.古沢がラジオ自作ファン向けの誌面を作るにあたって,
『ラヂオ』の経験が非常に役立ったにちがいありません.(創刊号に”読者か
らの手紙”とか”読者との質疑応答” を創刊号に書く,といった勇み足もあり
ました:古沢本人の回想による.ただし,これは”確信犯”で,読者へのメッ
セージであったのでしょう.)
 微細な点は,前記拙稿”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ――日
本最初のラジオ雑誌”に書きました.

# JA8IRQさん・皆さんに関心を持っていただき,ありがとうございます.
毎度長々と,ご迷惑かとも思いますが,続きを書いています.既書き込み細
部に補正もあり,”まとめて保存”はまだ待ってください.

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