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2023/12/11 (Mon) 18:10:31

『ラジオの歴史』こぼればなし⑥  投稿者高橋雄造

#⑤末尾の”前記拙稿”は,次の通りです.
-”浜地常康の『ラヂオ』から『無線と実験』へ――日本最初のラジオ雑誌” ,
『科学技術史』(日本科学技術史学会),11号,2010年,1-36頁.

 ”ラジオの歴史”を調べる前に,日本の電子部品工業史の研究・聞き取り調
査をしました.大学工学部の研究者が工業史を調べるので,大きな困難なく
電子部品メーカーとコンタクトできました.ラジオ関係はそうはいきません.
そこで相談相手・指南役になって下さったのが,老川正次郎さん(キャビネ
ット・メーカーである老川工芸所/ベニスの社長)でした.”それは〇〇に聞
け,こういうことは✕✕さんに頼めばよい”というアドバイスです.どのよう
にして老川さんにたどり着いたか,電子部品(バリコン,スイッチ,可変抵
抗器,テレビチューナー等)のアルプス片岡勝太郎さんからの紹介であった
かと思います.
 片岡さんと老川さんは,ウマが合ったのでしょう,硬軟の良いコンビで業
界のリーダー・世話役でした.小生は” 片岡勝太郎”と” 老川正次郎”という
のぼりを立てたら,芝居小屋みたいだな,などと思いました.
 ラジオ少年であった頃,ベニスの瀟洒なキャビネットとダイヤルにはあこ
がれました.もとより,手の届く存在ではありませんでした.
 老川さんは,若いころに伊藤賢治の赤門ラヂオ(本郷の東大赤門前にビル
が後年まで残っていました)にいたと言いますから,日本のラジオ工業界の
初期にくわしいわけです.箱・ダイヤルから部品まで,外見がすべてアチャ
ラものとそっくりでないと全く売れない,そっくりだとよく売れる,”上等舶
来” 時代であった.各社のブランド名もカタカナ英語(しばしば怪しげな)
で,これが戦後まで続きました.
 戦前・戦後を通じてラジオ界の事情に詳しく,しかもそれをよくわかるよ
うに話して下さるのは,氏が箱屋・家具屋であったことと関係しているでし
ょう.ラジオ関係の製品は”金物”である(製造工程は鈑金である)のに,箱
は木工です.それゆえ,ラジオ・部品製造会社間の競合に巻き込まれること
なく,たいていの会社と友好関係を持てます.言わば”中立”です.ライバル
会社の社長が同業組合の長になるとまずい(前述スターとチェリーの例もあ
る),というのとはちがいます.老川さんは業界の保険組合や年金関係の世話
役をやっていて,顔が広い.日本電子工業訪米視察団(1958年.無線関係は
8人)にも,老川さんが参加していました.老川さんは,業界に欠かせない
人でした.
 ポータブルラジオの白砂電機/シルバーを調べたいと思い,老川さんに頼
んだのですが,なかなか連絡先がわからない.最後には保険関係の名簿から
名古屋の白砂允さんを見つけて下さいました.
 ”なぜそんなに他社の人の面倒を見るのですか”と質問(野暮な)をしたと
ころ,次のような答えをいただきました.老川さんは東京・日本橋の生れ,
ラジオの工場・店を始める人の多くは地方出で,青雲の志を抱いて徒手空拳
に近い状態で上京するのだから,これを助けるのが東京の人間のつとめだと
いうのです.この業界には偉い人がいるものだ,と感じました.
 なお,地方出身の創業者何人かに,後ほど触れる予定です.新潟県からの
佐藤敏雄(日本ケミコン),山梨県からの広瀬太吉(広瀬無線電機)・角田照
永(角田無線電機)兄弟など.
 中野の神田川沿いの老川社を訪ねたことを思い出します.老川さんは70
歳を越えていたでしょうか.頭を油で黒くきれいに固めていて,なかなかの
艶福家のようでした.故・老川さんにあらためてお礼申し上げます.
 電子部品工業史については,下記拙稿に書きました.
  “戦後日本における電子部品工業史”,『技術と文明』(産業技術史学会),
  16冊(9巻1号),1994年,63-95頁.

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