ラジオ雑誌については,南波十三男さんからいろいろ教えていただきまし
た.お目にかかることはできませんでしたが,電話で何度も質問し,ご意見
をいただきました.氏は,『電波科学』,『ラジオ科学』や『電波とオーディオ』
の編集部員・編集長を務められました.奈美野冨男というペンネームも使い
ました.並の男という意味です.電話で会話した印象では,なかなかのサム
ライのようでした.不躾な質問をたくさんして,よく怒鳴られなかったと思
います.ラジオ雑誌編集・発行の内実は,小生のような部外者にはわかりま
せん.南波さんは,最盛期の各ラジオ雑誌の発行部数などを教えて下さい
ました.店頭に並べるべく書店に運ばれてくる,その部数のうち1割はロス
となる,ということも.南波さんに心から感謝しています.
柴田寛の『ラジオ科学』(『ラヂオ科学』)を愛読した人も多かったでしょう
(ことに地方で).小生の記憶では,書店の店頭で見ても,いかにも垢抜けが
しない,判型も他誌より小さい.”読者の声”も編集部補作(あるいは全くの
編集部作)みたいで,東京のラジオ少年には向かない.地方のラジオ工作フ
ァンにはアピールしたのでしょう.都会的な『ラジオ技術』とは天と地のち
がいです.これは柴田寛(”柴寛”と呼ばれた)の戦略であったようです.”日
本一安いラジオ雑誌”と謳っていました.ラジオ工作少年は,スタイルブック
を見てため息をつく女性のようなところがあります.先端モードにあこがれ
るにしても,読者の境遇からあまりかけ離れていないものを見せた方が購買
欲を刺激する,これが柴寛の戦略であったのでしょう.ハイブラウは避ける,
ということです.
柴寛と『ラジオ科学』については,下記に詳説しました.彼は,『ラジオ科
学』ののち,ガム製造へ転身しました.
NHK技研所長でおっとりタイプの中島平太郎さんがやり手の柴寛と親し
かった,というのは何かチグハグは感じがします.中島さんは,”自分の文章
は柴田さんに直してもらってできた”とおっしゃっていました.実は柴田さん
は中島さんの仲人であったそうで,それならば・・・です.
中島さんには,その後何度もお目にかかりました(A社の介在なしに).大
変率直な方です.氏は,後輩技術者に慕われ,ファン(信者)も多かった.
”スピーカは2way・3wayと分けるほど,良い音になる”とおっしゃっていま
した.高音と低音の混変調のようなものが良くない,ということでしょう.
小生の場合,ステレオは未だに三菱の6インチ半で聴いています.2way・
3wayにするお金がないし,巨大なスピーカーボックスを二つも置くスペー
スがないからです.
- ”柴田寛と『ラジオ科学――ラジオ雑誌の歴史』”,『科学技術史』(日本科
学技術史学会),6号,2002年,31-70頁.
なお,同誌4号,2000年に,柴田徹”『初歩のラジオ』の寄稿者たちの経歴
とその特質”もあります.戦後の学校で職業家庭科にラジオ工作が入って,教
員たち(ことに地方の)が『初歩のラジオ』でラジオ技術を勉強しました.
『ラジオ科学』も,でしょう.ラジオ技術の通信教育も役立ったはずです.